内田樹著「街場のメディア論」(ISBN4-334-03577-9)を読みました。
マスメディア批評の本でした。テレビや新聞が衰退している原因についての考察を、大学2年生向けの講義を本にするという形でまとめてあります。
テレビや新聞の衰退については、自分も同じようなことを考えることがあるので、それを論理的にわかりやすく解説しているのを「うんうん」と頷きながら読んでました。でも、クレイマーが増えたのはメディアの影響というのは、この本を読むまで考えたことがありませんでした。言われてみれば、そのとおりに思えるのですが。
だいたいは同意しながら読んでたのですが、途中「え?」と思った部分がありました。
僕たちは書棚に「いつか読もうと思っている本」を並べ、家に来る人たちに向かって、いや誰よりも自分自身に向かって「これらの本を読破した私」を詐称的に開示しています。 (P. 155)
うそーん。
自分の場合、「いつか読もうと思っている本」はAmazonの「欲しいもの」に載せてるだけ。しかもリストは非公開です。買う本は基本的に「手元に置いておきたいほど何度も繰り返し読む本」のみ。そうでない本は図書館で借りて一度読んで終わっちゃうんですよね。読み終わったあとも手元に置いて何度も繰り返し開きたくなるような本だけ、自分でお金を出して購入します。ケチですみません。
自分にとって図書館とは、試着室のようなものです。タイトルや小見出しでちょっと気になった本を読んでみることのできる場所。
それと、次の部分でも「え?」と思いました。
例えば、紙の本を処分して、蔵書を全部電子化した人の家に遊びに行った場面を想像してみてください。その家には「本棚」というものがないんですよ。たぶん僕たちはそんな家に長くはいられないと思います。息が詰まって。 (P. 161)
おや、これはうちのことですね。正確には完全にすべて電子化したわけではありませんが、家に来た人の目につく場所に本は置いていません。すべて扉つきの棚または引き出しに収納してあります。だってホコリが溜まるのいやだし、光が当たると本が傷むんですもの。だからってうちは、そんなに息の詰まる家かしらん。うちじゃなくても、「書凝り」という本棚だってずいぶん売れてるはず。
その家に暮らす人がどんな人だか推測するのに、本棚が必須だとは思わないけどなぁ。それ以外にもいろいろとあるでしょう。どんな場所にテレビが置いてあるのか、とか。どんな風に片づけてあるか、どんなインテリアを使っているのか。本に光を当てないよう収納している、ということからだって、本をとても大事にしたい人ってことがわかりますよね。みんながみんな、自分の蔵書を他人に見せびらかしたいわけじゃないと思うんだけどな。
といっても、人は自分自身や自分の経験からしか判断ができないし、類は友を呼ぶとも言うものね。著者のまわりには、お互い蔵書をそれとなく見せ合うような友人が集まり、本が痛まないよう気を遣うコレクタータイプの人はいない、ということなのかなーと思いました。だからって、世の中の人が全部自分たちと同じ感覚でいると思うのも、ずいぶんナイーブよね。
まあ、でも、そんなことはこの本の本筋には関係ないんですけども。この前後の文章だけは自分の感覚とかなりずれていたので、ちょっと不思議に思ったのでした。
さて、数年後メディアは実際どうなっているのでしょうか。